慎一の青春其の二
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千葉療養所を手術を忌避して脱走した慎一は定婆さんに紹介された天道教名古屋支部に落ち着いた。あてがわれた部屋は建築の飯場に似ていた。
朝夕の読経のほかは裏山を崩して平地を造成1仕事だった。これでは命が持たないと動揺したが他に逃げ場がないと観念した。
なんとか身体を動かしてズルしていると思われないように必死だった。教会の副長からは結核のような贅沢病は最低の仕事から始めろと朝4時に15個もある便所掃除まで命じられた。
慎一はひたすら決められた仕事は休まないことを自分に律して勤めた。その内一時間の山削りの代わりにボイラー付の風呂焚きから清掃まで命じられた。
慎一は皆勤して励んだ。一年も経った時病気は嘘のように治っていた。驚いた教会は奇跡と驚喜し奈良の教導員資格の得られる専修科への受講を命ぜられた。
そこには300人からの信徒が詰めていた。一同は寮から毎日列を作って学館にかよった。週に一回農場での作業もあった。慎一は奈良の生活が楽しかった。
禅の僧侶とも馴染み色々教わった。[生も一時のくらいなり」など難しい経を口にして煙に巻かれた。授業をサボって京都の龍安寺へ行ったこともあった。
その内農園場長から呼び出しを受けてっきり京都のことを叱られると思ったところ「ある信徒の娘さんを助けてあげなさい」と謂われ当惑した。
娘さんは重度の結核だった。高校の娘さんとおもったら20過ぎの女性だった。「宗教は人間の願望にすぎない」と虚無的な態度に辟易した
慎一は軽くあしらわれたが教会長に教えられた「働くことは傍を楽に1こと」だとして娘さんの家の店員さんを助ける仕事を1うちに
娘の桐子さんは自分の驕慢を恥じて優しく応対1ようになった。桐子さんは戦時中の勤労動員の話をしてくれた。特攻隊のニュースを見せられて
落下傘作りから遂にアメリカ本土襲撃用風船作りに昼夜没頭で働いたが敗戦で帰宅すると今度は家業の生計の為に宗教の法被を受注1為望まれて
繊維会社の息子と結婚させられたが商売は繁盛したが戦時中の疲労が重なり結核になり離婚1羽目になってしまった。
桐子さんも慎一の真面目さにうたれ戦時中の勤労動員の詳細を語るようになった。多くの女学生が髪を振り乱し裸足になってヘトヘトになりながら作った
風船は9000発を超え茨城県の浜から打ち上げられた。病みつかれ風船の糊造りで掌紋も失った桐子は女子挺身隊の全員の氏名を碑にしてその浜に立てたいと願ったが病は好転しなかった。
慎一は毎日神殿に行き祈った。 -
国分寺市立いずみホール、劇団民芸俳優他、内田博司第2回プロジュース
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